発信源

・このページの内容は観光関係者、宗教界を代表するものではありません。
読み手の皆様に、特定の思想を強要する意図も御座いません。
・大藏寺独自で発信するべき事として、関係者と十分協議した上で掲載しております。

平成28年4月6日。
午前11時頃。


参道に二箇所、立ち入り禁止の看板と立ち入り禁止の詳細を記した掲示物がありながらも、男性が立ち入った。

男性は大蔵寺従事者に対し、名乗った後の会話の初っ端から『自分は◯◯先生の弟子です』と話し出すので従事者は◯◯先生とは何の御方か問うと◯◯先生とはどうやら写真家の大御所らしい。

従事者が要件を問うと、写真撮影が目的で、入山の許可を得に来たと述べるので、写真家や行楽は一切お断りしている旨を説明し、参道掲示物にも記してある事を伝えた。
加えて立ち入り禁止を無視して入山したきた事を咎めると『自分は◯◯写真協会に所属している』云々と語り、◯◯写真協会の会員証を提示してきた。

従事者は参道掲示物にもあるように写真家はお断りである事を頑なに説明したが、◯◯写真協会はきちんとした会である。
『自分はマナーには気をつけている事を知ってもらいたい(彼者がここに居る事自体がマナー違反)』等と、こちらの説明がまるっきり理解されていない回答をするので、従事者は強くお引き取りを願い、下山をさせた。

そもそも、立ち入り禁止を無視した者が、突然現れて◯◯先生の弟子であると言われても、一体何の事か解らない。
また我々には◯◯先生が何処の誰であるか、何の先生であるかも解らない。

その業界の大御所の名を出せば便宜をはかってくれると思っての発言であろうが、我々にとっては他所の権威など、どうでも良い事で、さらに◯◯写真協会の会員証をしたり顔で提示されても対応に困ります。

はっきり申し上げれば『◯◯先生の弟子である。』『◯◯写真協会の会員証です。』と言われても、だから何だと言うのが正直なところです。

そもそも、立ち入り禁止写真家お断りの看板や掲示物がありながらも堂々と入山し、写真撮影の許可を求めて来た事自体がマナー違反であり、掲示物には【予約無しの来訪は受け入れられない】旨の文言も記してある。

最近、このページの更新が滞っていましたが、◯◯先生の弟子である、◯◯写真協会の会員である、といって入山許可を強行に求めてくる写真家、写真愛好家が後を絶たない事から、◯◯写真協会にこの件を電話にて苦情を入れ、ここに掲載しました。

我々の苦情に対し、◯◯写真協会は丁寧に対応して下さり、会員証はあくまで◯◯写真協会内でメンバーである事を証明するものであり、他所での特権や権限を主張する為の物ではないとの事で今後、同様な事が起きたら即、協会に連絡を下さいとの事でした。

改めて述べますが、我々はどの様な社会的立場や権威に対しても、ならぬものはならん、と言う立場です。

無理を押し通す手段として権威を利用する手段は、我々には通じません。

駄目なものは駄目なのです。


平成25年


立入禁止のロープを越えて平然と入山してきた男性一名。

入山禁止を告げ、立入禁止の看板とロープが有ったことも告げたが、悪びれる様子もなく、首を傾げてなぜ自分が注意を受けているか理解できない様子。

詫びるわけでもなく、謝罪の言葉一つなく「駄目なんですか?」「駄目なんですか?」とふてくされて反論をする。

結局、少しでも長く居座ろうと周囲を観察始めるなど、なかなか立ち去りませんでした。


もとより、入山禁止の看板とロープが有り、それを越えてまで侵入してきたことに対して今更駄目も何もありません。

この機会に何度も言いますが以前、行楽客を迎えていた時期にでも、無断で堂内に立ち入る者、従事者の生活圏内まで入り込んでくる者、立ち入り禁止区域に入りこむ者が絶えず、何度注意をしても何故駄目なのか、何故注意をされなければならないのか、酷い者では出鱈目な権利を主張する者が多くなってきて、大蔵寺で対応できなくなる状況が続いたので仏事のご用以外の者を立入禁止にしたわけです。


看板は日本語で書いています。

一畳ほどの大きな看板です。

ロープも張っており、そのロープにも、観光不可の看板をぶら下げています。

それを乗り越えてまで進入するということは、一般常識では考えられません。


彼者にも言いましたが、此のようなことをするから入山禁止にしたのであって、他でも、このような者による迷惑行為が多発するために入山禁止になった寺院もあります。

見物をしたい気持わかりますが、ルールを守らないで参拝も何もありません。
たとえ、参拝であっても違法な行いや他人に迷惑をかけてまでの無法な行いをしてまでまさる信仰心は、信仰とは言いません。

仏教で言う自由平等とは『寺院や仏の前では、なんでも好き勝手に行っても良い』ということではありません。

また、この先日にも看板を無視して入ってきた者がいましたが、謝罪の言葉を述べて以後、気をつけると反省の念が有ったため、ここでは詳細は記しません。

大蔵寺だけではなく他の観光地でも同様に、その場所のルールを守ってください。


平成24年11月16日午後15時頃

電話にて、ある番組制作者よりドキュメンタリーの制作の協力依頼を受けた。その際、当法人はメディアへの協力には慎重な立場を取っていることを伝えると、それをマスコミアレルギーとされ、さらには当法人の観光へのあり方(本来の信仰者を優先し、行楽は受け入れない)あり方に対して「仏教とは〜である。そのようなことではいけない」との旨を語り、「お寺とは、この様であるべき」等の意見を述べてきた。

当法人としては、公にその名が流布されるのですから当然、慎重になります。

個々の意見や思想は当然尊重されるべきであります。マスコミも、各々違う意見があるから多角的に事象を観察でき、視聴者へ様々な視点で情報を提供できるものだと思っております。
ですから、この番組制作者の意見も、一つの有るべき意見として尊重いたします。

しかしながら、我々は一法人であり、宗教団体であるので、当然固有の理念を有しており、全ての意見を取り入れて運営することは出来ません。第三者の意見を取り入れての運営を行うことも出来ません。ですから多種多様の物事のあり方、固有の理念のあり方を否定し、押しつけがましい、一般論と称した持論を展開されては困ります。

さらに言うなれば、取材協力先である寺院のあり方に、一言申すという態度も如何なものでしょうか。

社会的に影響力があるマスメディアによって当法人のあり方が制作者の視点で歪曲されて世間に流布されることは、なんとしても回避しなければなりません。

我々は、マスコミが描いた理想の寺院を実現するつもりは毛頭御座いません。

当法人のあり方にご理解いただけない方は、マスコミであろうと受け入れることは出来ません。(*賛同せよという事ではありません、寺院のあり方の一例としてご理解いただければ幸いです。)

この様な取材対象への偏見や、先入観は必ず作品に影響して現れてくるものでしょう。

今回の件は、一般論と称した第三者による理念の攻撃の判りやすい事例として、役員会の決議によって掲載いたしました。

過去、この様な第三者の理念の介入によって、本来当山の宗教理念における救済の対象者が、隅に追いやられて参りました。

一般社会においての「こうあるべきだ」という理念の介入によって「こうあることが出来ない悩める方を追いやってしまいました」。

この件により、当法人は今後あらゆるメディアからの接触をお断りする事となりましたので、ご関係者の皆様には、あしからずご了承下さいませ。

平成24年5月10日午前11時頃

境内にて話し声が聞こえたので従事者が様子を見に行くと、2名の中年の女性が居た。

参道途中には、一般参拝および観光行楽者の立ち入りを禁止する(関係者以外立ち入り禁止)畳一畳ほどの立て看板を設置しており、立ち入り禁止を示すロープも張ってあるのだが、それを無視して進入してきたという。

看板の内容は熟読したが、どうしても入りたくて入って来たと悪びれる様子もない。

あなた方のような方々が居るから一般参拝を禁じた旨を伝え、お引き取り願った。


そもそも、立ち入り禁止の処置を行ったのは、すでに告知して有るとおり立ち入り禁止場所に平気で踏み込んだり無断で堂を開扉したり、付近にゴミを捨てるなどの写真家、狼藉者が多いためである。

どうしても入りたい、参拝したいのであるなら正規に提示している方法をふまえれば当法人は参拝を受け入れているのだが、その場でどうしても入りたかったので入ってきたというのは、それは例え信仰心極まってのことであったとしても許される事ではない。

寺社の設定するルールを犯してまで行う参拝は断じて信仰とは呼ばない。

また、信仰心のうえではなく、単に観光行楽目的であるならば更にたちが悪い。

このような事が今まであまりにも多かったので、敷地全体を立ち入り禁止にしたのであるが、それすら理解してもらえずに、告知を無視して結界まで乗り越えてくると言う行為は宗教以前の問題で、社会のルールを逸脱した無法者と呼ぶべきだと考える。

宗教以前に、法治国家の法すら守れない無法者である。

当事者にいかなる理由が有ろうとも、このような者は受け入れない。

予め断っておくが「これくらいは許されるだろう」「許すべきだ」という考えは一切受け入れない。
許す許さないは管理者である、こちら側が判断するべき事である。
 
観光客、一般参拝の受け入れを廃止した背景は、ルールを無視した我が物顔の者や、考え難い不敬な行為を行う者、場合によっては警察に通報しなければならない事例を犯す者が多い事などでした。

悪質な場合は勿論、警察に通報しておりますが、これらの事は再三、注意を呼び掛けても聞き入れて頂けないのが現実です。

〈大和郡山市の男性による行為〉
平成24年1月13日。
14時頃。
(大蔵寺の一般参拝、観光客の受け入れ拒否から僅か13日。)

寺院従事者が山内見回り中。
立入禁止と警告が述べてある大きな看板と共に、
張ってあるロープが外されているのを発見。
その先を辿るとリュックを背負った初老の男性が歩いていた。

男性に声をかけ、先ずはご用を訪ねると「ちょっと見に来た」と返答されたので、ルールは守りなさいと注意を促すと
「偉そうに言うな」「宗教は全てを許すものだろう」と反論される。

その後、男性は身勝手な解釈と持論で対抗し
「注意の仕方が悪い」など、タチの悪い開き直りをして引き下がらない。

彼者は当ホームページを見て、予め予約が必要なことを知っていたと述べたが、それを無視し、山内掲示物を無視し、ロープを外し侵入し、ロープはそのまま放っておいたうえ、揚句には
「では、今から予約するから入れさせよ、お金を払えば見せてくれるのだろう」と一切悪びれることはなく身勝手な独自の持論を語り続け、こちらの事情を聞いて頂けなかったので極めて厳しく対応して即刻の下山を求めた。


どの宗教でも悪業を戒めることを説き、事の良し悪しを説くものであって、反省せざる者を無条件で許すものでは有りません。

過ちを悔い改める者、本当に解らなかったと言う者に対して慈悲をもってあたり、同じ道を共に歩むものです。

「縁無き衆生は度しがたし」という言葉が仏教にはあり、はなから聞く耳を持たない者は、釈迦でさえ説き伏せることは困難で、仏の教えによってでも救えないと伝えられております。

ルールを守らず開き直りをし、聞く耳を持たない者が自身の口で「全て許すのが宗教である」と言うのは、これまさしく縁無き衆生です。


彼者の理屈は「迷惑な事なので、止めていただきたいと言う願いを無視する者、他人が嫌がる事を行う者を無条件で許せ、それが慈悲であり宗教だ」と言うことでしょうか。

それは慈悲では有りませんし、そのような事を説く宗教はございません。
宗教とは、他人が嫌がる事を行う者を戒めるものです。

また、悪業を犯した者が神仏の慈悲を逆手に取り、自分が許されるための自己弁護に用いるなど、もっての他です。


大蔵寺が一般参拝や観光客の受け入れを禁止したのは、このような者が多くなってきたからです。

受け入れを禁止した現在でも、このような者が後を絶ちません。

今までは許されざる者も、寺院の建前で許して参りましたが、それは誤りだと認め改めて、今後は極めて厳しく対処を致します。


彼者が未来において、自ら然るべき仏とのご縁を求められる時が来ましたら、その時には良きご縁として喜び、共に法の道を歩んで行きたいと考えています。

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